11/20/2025

小字あれこれ 余話 団地建設その2

拡大と縮小の象徴に

転機を迎えた団地群



 前回の「大分『志手』散歩」の「小字あれこれ その⑤ 団地建設」(2025年11月2日公開)では、志手の後背地に広がる「にじが丘」や「青葉台」などの住宅団地(上の写真)の昔の地名を調べてみました。

 現在の地図と明治時代の字(あざ)図を比べ、今の地図に昔の小字を当てはめてみました。大ざっぱで正確とは言い難いですが、とりあえず作ってみたのが下の地図です。


 現代版の字図を作ってながめていると昔の地形が頭に浮かんできます。

 例えば「平原」「イドラ平」の「平」は平坦な土地を連想させ、「栗迫」「白迫」「市坊迫」の「迫」は山あいの小さな谷間を想像させます。

 ちなみにイドラとは野茨(のいばら)、野生のバラのことだそうです。すると「イドラ平」は野バラいっぱいの平地となりますか。

 こうした「小字」が物語る情景は、住宅団地建設のために大規模な造成が行われて一変してしまいました。

◇     ◇     ◇     ◇

 大規模な住宅団地造成は志手の周辺だけでなく大分市内の各地で行われました。今回は市内の団地建設の歩みと現状を少し見ようと思います。

 参考にしたのは大分市の「大分市住生活基本計画」のほか、大分大学教育福祉科学部研究紀要掲載の「大分市における住宅団地の開発と高齢化」(土居晴洋、久保加津代、板井美奈著)などです。

 大分市の住宅団地の現状について簡単に見ておきましょう。

 大分市住生活基本計画によると、市内には78の住宅団地があり、その半数以上が開発から40年以上経過しているそうです。

 そして、完成から30年以上経過した団地では顕著に人口減少が現れ、完成後40年以上経過した団地では空き家率が上昇しているといいます。


 
人口減少と高齢化で活力を低下させている住宅団地も少なくないようです。全体として見れば住宅団地の先行きは明るいとはいえないようです。

 悲観的な話から始まりましたが、市内の住宅団地が光り輝いていた時代もあったはずです。団地建設の歩みを少し見てみたいと思います。

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戦後復興と経済成長 城南団地と明野団地




 先に「大分市住生活基本計画」にある大分市内の住宅団地一覧表を紹介しました。

 それをもう一度見てみます。上の写真は一覧表にある「明野団地」の開発当初の頃です。

 表では完成時期によって団地を5グループに分けています。

 「昭和49(1974)年以前」が「青色」、「昭和50(1975)年から昭和59(1984)年」が「緑色」、「昭和60(1985)年から平成7(1995)年」が「黄色」、「平成8(1996)年から平成17(2005)年」が「オレンジ色」、「平成18(2006)年以降」が「赤色」になっています。

 ちなみに上の写真の「明野団地」は「黄色」になっています。黄色は「昭和60(1985)年以降の完成」ですから比較的新しい団地に見えます。

 実際は「明野」開発の歴史は長く、始まったのは昭和40(1965)年代でした。

 左の年表によると、大手企業の進出を見込んで、その社宅用地として「明野」を大分県が指定し、買収を始めたのが昭和36(1961)年だといいます。

 そして、土地の造成を始めたのが昭和40(1965)年からでした。造成は昭和40年の第1期から昭和45(1970)年の第5期に及んでいます。

 海岸線を埋め立てて大規模な工場用地を造り、鉄、化学、石油などの重化学工業の進出を促す。国の「新産業都市」政策に呼応した大分の成長戦略でした。

 「新産都大分」の話は、このブログ「大分『志手』散歩」の「大分まち歩き③住居表示番外編⓷都町Ⅱ 鉄と石油と夜の街」(2023年3月23日公開)で少し詳しく書いています。

 
明野団地の完成が昭和60年以降となっているのはその後も長く開発が続いたということでしょう。

 「明野」は大分市の経済成長、発展の象徴ともいえる団地でした。

 さて、明野団地の先輩格にあたるのが「城南団地」です。城南団地は昭和37(1962)年に大分県下初の郊外住宅地として開発されたそうです。

 衣食住に事欠いた敗戦後の状況は改善したとはいえ、住まいの整備はなかなか進まず、昭和30年代の大分市は深刻な住宅不足に悩まされていたといいます。

 住宅不足緩和のために大分県と大分市が、市中心部に比較的近い丘陵地に目を付け開発したのが「城南団地」でした。昭和40(1965)年までに4階建てのアパートや戸建て住宅など計685戸が建設されたそうです。

 城南団地については「大分市における住宅団地の開発と高齢化」(土居晴洋、久保加津代、板井美奈著)を参照しました。
 
 戦後復興と経済成長を象徴する城南団地と明野団地はまさに「昭和」の団地の代名詞と言えます。

大規模開発 「官」と「民」との揃い踏みに


 前掲の論文「大分市における住宅団地の開発と高齢化」は、城南団地、明野団地とともに初期の大規模団地開発で特筆すべき団地として「敷戸団地」を挙げています。

 敷戸団地の整備は大分県土地開発公社が用地買収の主体となって進められ、開発面積は約54万㎡だそうです。

 ここに県営住宅や市営住宅、分譲住宅など合計約1800戸が建てられました。城南団地の建設戸数を上回り、明野団地に次ぐ規模といいます。

 明野団地も敷戸団地も、県など「公(官)」が中心になって整備が進められた大規模団地で、そこは共通しますが、建設の目的は少し違っていたそうです。

 「大分市における住宅団地の開発と高齢化」の解説があります。ちょっと長くなりますが、以下に引用します。

 「敷戸団地は当時、明野団地に次ぐ規模の郊外住宅団地として開発されたが、明野団地とはその性格を異にしていた」

 「明野団地が新日鉄や昭和電工などの特定企業の従業員を対象とし、公営住宅や建売分譲住宅を主体にしていた」

 「敷戸団地の方は住宅や従業員宿舎を建てたくても土地が高くて入手困難な一般市民や中小企業を対象とし、安い土地を提供する、土地の分譲を主体にしている」

 二つの団地の違いを上のように説明しています。

 大手メーカーの工場誘致に成功して大分市は工業都市として発展していきます。それとともに県内では大分市への人口一極集中が強まりました。

 人が増えて郊外の住宅団地への需要も高まります。県や市などに加えて民間による住宅開発も本格化しました。

 上の写真は大分県が発行していた「広報おおいた」1977(昭和52)年7月号に掲載されたものです。「バス、トラック、マイカーが入り混じって込み合う(国道)10号線敷戸付近」との説明が添えられています。

 

 「大分市における住宅団地の開発と高齢化」によると、大分川流域の宗方地区や稙田地区などの台地や丘陵地帯を中心に、サニータウン松が丘や宗方団地、西鉄光吉台団地、旦野原ハイツ、国分ニュータウン、富士見が丘ニュータウン、緑ヶ丘団地、梅ケ丘ニュータウンなどの大規模な郊外団地が開発されていったといいます。

 ちなみに、これらの団地の入居者の基本的な通勤先は大分市の都心地域や臨海工業地帯であり、通勤のほぼ限界といえる距離まで民間セクターによって郊外型団地の開発が進められた、と「大分市における住宅団地の開発と高齢化」は解説しています。

 郊外にマイホームを建ててマイカーで勤め先に通う人々による朝夕の通勤ラッシュは経済成長の副産物ともいえます。

高度成長にブレーキ 原油価格上昇の衝撃


 戦後日本の高度経済成長にも陰りが出てきます。

 大分県の広報誌「広報おおいた」の1974(昭和49)年1月号に「ビルラッシュの大分市街地」の写真があります。

 新しいビルが次々に建っているというのは、まさに高度経済成長の真っただ中という感じですが、実はこの時日本経済は大きな転換点を通過していたのです。

 日本経済は高度成長時代が終わり、安定成長・低成長の時代に移りました。それを余儀なくしたのが第1次石油危機(オイルショック)でした。

 ウィキペディアなどを見ると、第1次石油危機は1973(昭和49)年10月に第4次中東戦争を機にアラブ産油国が原油価格の引き上げを宣言したことに始まると説明があります。

 それまでの日本は海外の安い原材料を輸入して、それを加工した製品を輸出して外貨を稼いでいました。

 この加工貿易が高度成長の大きな力となったのですが、原油価格の急上昇によって安い原材料という前提が崩れてしまいました。そして、日本の経済成長にブレーキがかかったのです。

人口減少 広げたものをどう手仕舞うか


 いまの日本経済を見ると、オイルショックの時以上の急ブレーキがかかっているように思えます。それが高齢化と人口減少です。
 
 大分市の人口ビジョンという資料があります。そこに大分市の人口の将来推計がありました。

 令和6(2024)年度版(上のグラフ)と令和元(2019)年度時点修正版(下のグラフ)を比較してみます。

 2045年の大分市の人口は令和元年度版の推計値が43万4,000人でした。これに対し令和6年度版は43万人で4,000人減と下方修正されています。

 令和6年度版の2045年の人口構成を見ると、生産年齢人口(15歳~64歳)が53%、老年人口(65歳以上)が36%、年少人口(15歳未満)が11%になっています。

 生産年齢人口の比率は低下傾向、老年人口の比率は上昇傾向、年少人口は横ばいとなっています。

 これは令和6年度版も令和元年度時点修正版も同じです。

 大分市の人口は2016(平成28)年の47万8,586人をピークに漸減傾向にあります。減少はやや加速しながら続き、高齢者比率が徐々に高まる。社会に余程の変化がない限り、この推計は揺るがし難いように思えます。

 将来人口推計は地域別もあります。明野地区はどうなっているでしょうか。それが下のグラフです。

 
令和6年度版と令和元年度時点修正版を見てみます。

 2045年の人口は令和6年度版の予測が1万2,000人でした。令和元年度時点修正版では1万5,000人でしたから、明野地区の人口減少のスピードも加速しているといえます。

 興味を引くのは高齢化率です。明野地区の老年(65歳以上)人口の比率ですが、令和元年度時点修正版では2045年が49%でした。これに対し令和6年度版の予測では44.7%になっています。

明野地区では老年人口の減少が大きくて、その結果、高齢化率は抑えられるとの予測になっています。なぜ高齢者が大幅に減少するのか。その理由をもう少し詳しく知りたいと思いましたが、それは別の機会にすることにします。

 住んでいる人が減るということは空き家が増えるということでしょう。ならば空き家をどうするかが課題になります。

 住民が減っている明野地区では団地の再編が始まっているようです。地元のテレビ局のニュースがありました。

 右の資料は大分放送(OBS)の2023(令和5)年6月23日と2024(令和6)年7月17日のニュースです。

 明野地区の県営団地の建て替えについて報じています。築50年を超えて老朽化している県営住宅を解体し、新たな住宅を建てて、そこに集約化を図るという内容のようです。

 人が減るのに応じて団地も縮小・再編する必要があります。大きく広げたものをどう整理し、時代に合ったものにするか。手仕舞い方、片づけ方はなかなか難しいように思えます。

 大分市内の住宅団地再生の動きがさらに出てくれば、今後も関心を持って見ていきたいと思います。

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